戦争と兵器

トルストイの名作を読み一文字変えるとあら不思議、物騒&物騒な題名に、って何やキミ、令和早々何物騒なこと書いてるねんと呆れたとか。


*戦争と兵器*


軍艦が好き、というと何やら好戦的だと捉える人が多い。戦争を礼讚してるとまで言われたことはないけれど。
これは多分戦車や軍用機、その他各種軍事ネタを好む人にも共通なのかも知れない。

戦争は絶対的な悪である。

西洋由来の道徳観、人命第一のヒューマニズムに基づいて考えればそうであろう、かくいう私もそうである。戦争が駄目だと言うことと軍事マニアであることは違うのだ。

昔はそうでなかっただろう。みんな大好きマキアヴェッリ君は戦争を外交の選択肢とすることに何の迷いもなかっただろうし、クーデターや内戦を起こした人々は迷いこそすれ最後には交渉を続けて万年野党的な立場に甘んじることを良しとせずに直接武力で相手を「説得」しにかかったわけだ。以前上げた指導者の資質にあった「説得力」とはしばしばこの力を含んでいる。

とはいえ21世紀の今になって戦争を賛美する声は少ない、せいぜい過激なイスラム教徒くらいだろう。

戦争は悪である、という認識は世界に広まっているのに少なくとも前1286年からこのかた、世界史は無数の戦火に彩られている。人間は本能として闘争するものなのだろうか。

先日お茶の水核兵器を廃絶しようと呼び掛ける高校生を見かけた。おぉなんと善良な意志か。だがその努力が少なくとも今世紀中に実を結ぶとは思えない。核兵器は個人の意志を超えた国家の意志によって所有されているのだから、どこの核保有国の元首も例え核廃絶を願っても自国の保全を考える上で完全に廃棄するのは不可能だと考えるだろう。

皮肉なことに核兵器を廃絶する可能性により近いのは日本の高校生より大国の首脳で、さらに近いのは多分何処かの国の科学者だろう。核兵器を一夜にして陳腐化させうるスーパーウェポンを開発すれば「核廃絶」は成る。それに何の意味もないだろうが。


目的のために合理化を図りつつも様々な事情が反映されている、そんな兵器の典型である軍艦が好きなのだということと戦争はいけないということは話が違うのだという話をするつもりで書き始めたのに迷走してしまった。またの機会にするか…