鎮守府考察

20ある艦これのサーバー群は旧海軍の施設の名を冠されている。横須賀をはじめとする鎮守府、大湊警備府、トラックなど主に南方の泊地、果ては鹿屋、岩川といった内陸の基地まである。



ここまで書いて48日経った。

自分が何を書こうとしていたのか、難産だなぁという感想の残り香しか感じられない。


別に忘れてたんじゃなくてイベントが忙しかっただけなんだからね!(このブログ開設の動機はイベントの所感を綴るためだったらしいのにこんなこと言ってますよ!)

パルティアン・ショット

パルティアの主戦力といえば何だろう、という問いが投げ掛けられたとき皆さんはどう答えるだろうか。あ、世界史選択以外は知らない。なんとなく読んで欲しいなって……

パルティアン・ショット

騎兵、それも軽騎兵と答える人は「パルティア人のことは」よく勉強して知っていると言える。世界史の資料集にはイラン高原を出自とする騎兵が相手の脇をすり抜けざまに振り向いて矢を放つパルティアン・ショットが紹介されている。

だがセレウコス朝をシリアに追いやって大国となったパルティアがはたして軽騎兵を主力としたのだろうか?

確かに後のモンゴル人は軽騎兵空前絶後の大帝国を築いたが、それは短命に終わることとなった。機動力を最大の強みとする一方で弓矢という兵装の都合上どうしても継戦能力に欠ける軽騎兵では国境を維持するのは難しいだろう。

ならばパルティアの主戦力は何か、ペルシア帝国以来オリエントに君臨した重装騎兵である。弓を武器とする軽騎兵に対して槍騎兵だ。余談だが槍騎兵をドイツ語っぽく言うとランツェンレイター、格好良くない?ランサーとライダー足してるだけなんだけど。

でも、と反駁する人がいるかもしれない。カルラエの戦いでクラッススを惨敗せしめたのはスレナス率いる軽騎兵ではないか、と。

そう、そこがややこしい。当時のパルティア王はアルメニアとの戦いに軍の主力を振り向けており、臣下の大貴族であったスレナスは自らの私兵(貴族には軽騎兵のみ所有が許されていた)を率いてローマ軍に相対したのだ。

スレナスが世界の軍事史にその名を遺した所以は当時のパルティアで軽視されていた軽騎兵を有効に使ったことによる。彼は軍後方にラクダ隊を配して大量の矢を用意させた。さらに弓を改良して威力と射程を向上させたのだ。それまでのパルティア軍では開戦と同時に軽騎兵が矢を射掛け、矢が尽きれば槍騎兵が突撃するのが定番であり、カルラエのローマ軍もそれを予想して矢の雨に耐えていた。しかし尽きることのない矢はローマ兵を動揺させ、堅固な方陣を崩してしまったクラッススは結局敗死することとなったとさ。

金儲け以外は無能との呼び声が高いクラッススだが相手が独創性に溢れる名将だったのも災いしてしまった。

スレナスの編み出した軽騎兵活用術はその後彼が王に暗殺されたことで忘れ去られてしまったのでクラッススの不運はある意味二重のものであった。

故郷

今度は魯迅のパクリかッ


故郷


古巣の関西に帰って来たはいいがどうも現実感がない、世界のリアリティーが1割引な感じの日々。

夜風が心地好いとのツイートを見て、川の上の歩道橋を通る道を選んだ。

思えばこちらに来てから旧友の誰とも会っていない、当然と言えば当然でみんな大学か予備校通いで小学校の同期で地元にいる者など神大生位であろう。

そんな気付きに少々淋しくなる夕方の道でふと下を見るとマンホールがある。

マンホールの蓋には甲子園、西宮の象徴であろう。

地元に帰って来たという実感に欠けていた最後のピースが埋まったような気がして、思わず立ち止まっていた。

戦争と兵器

トルストイの名作を読み一文字変えるとあら不思議、物騒&物騒な題名に、って何やキミ、令和早々何物騒なこと書いてるねんと呆れたとか。


*戦争と兵器*


軍艦が好き、というと何やら好戦的だと捉える人が多い。戦争を礼讚してるとまで言われたことはないけれど。
これは多分戦車や軍用機、その他各種軍事ネタを好む人にも共通なのかも知れない。

戦争は絶対的な悪である。

西洋由来の道徳観、人命第一のヒューマニズムに基づいて考えればそうであろう、かくいう私もそうである。戦争が駄目だと言うことと軍事マニアであることは違うのだ。

昔はそうでなかっただろう。みんな大好きマキアヴェッリ君は戦争を外交の選択肢とすることに何の迷いもなかっただろうし、クーデターや内戦を起こした人々は迷いこそすれ最後には交渉を続けて万年野党的な立場に甘んじることを良しとせずに直接武力で相手を「説得」しにかかったわけだ。以前上げた指導者の資質にあった「説得力」とはしばしばこの力を含んでいる。

とはいえ21世紀の今になって戦争を賛美する声は少ない、せいぜい過激なイスラム教徒くらいだろう。

戦争は悪である、という認識は世界に広まっているのに少なくとも前1286年からこのかた、世界史は無数の戦火に彩られている。人間は本能として闘争するものなのだろうか。

先日お茶の水核兵器を廃絶しようと呼び掛ける高校生を見かけた。おぉなんと善良な意志か。だがその努力が少なくとも今世紀中に実を結ぶとは思えない。核兵器は個人の意志を超えた国家の意志によって所有されているのだから、どこの核保有国の元首も例え核廃絶を願っても自国の保全を考える上で完全に廃棄するのは不可能だと考えるだろう。

皮肉なことに核兵器を廃絶する可能性により近いのは日本の高校生より大国の首脳で、さらに近いのは多分何処かの国の科学者だろう。核兵器を一夜にして陳腐化させうるスーパーウェポンを開発すれば「核廃絶」は成る。それに何の意味もないだろうが。


目的のために合理化を図りつつも様々な事情が反映されている、そんな兵器の典型である軍艦が好きなのだということと戦争はいけないということは話が違うのだという話をするつもりで書き始めたのに迷走してしまった。またの機会にするか…

東京点描Ⅲ

落ち着いたので再開。関西帰ったのになんで東京なんだってそりゃ心の中の風景を具現化するには離れて見ることも重要なのだとかなんとか。

イシュタル

電車の中で男子高校生が二人スマホ片手に喋っている。聞けば某スマホゲームの話題である。

「イシュタル強いよな」
「NP50%チャージだしな」

いやはや、とそのゲームをやっていた私は苦笑した。
古代メソポタミアで文字通り「神」として君臨した彼女も現代日本では一介のキャラクターにすぎない。

信仰を失った神は妖怪に過ぎないという話を聞いたことはあるが『シュメール人都市国家ウルクで信仰された守護神』として文献に名を遺すのみとなった彼女は忘却の淵から名前を拾い上げられてキャラクターとしての生を再び受けた訳だ。そこに殆ど信仰は無く、今や神話の英雄や怪物達と並列化されている。

神をもコンテンツとする人類はこれから何処へ向かうのか。それは皮肉にも神のみぞ知る。

平成終わっちゃいますね。昭和を知らない我々が平成を語ってもただの人生振り返りになっちゃうからあれですけど。この先平成を振り返った時どう捉えるんでしょう。やはり幼~青年期なのでしょうかね。

東京点描Ⅱ

聞こえてくるもの


社宅の立ち退き期限が迫って引っ越した新居は河岸の丘、いわゆる河岸段丘というやつであろうか、とにかく古墳がある丘の裾野にあった。

河川敷はスポーツ少年少女にとって格好の練習場である。休日に窓を開けているとバットの快音がリズム良く響いてくる。近くでは叫んだり笑ったりしていたのだろうが少し距離のある我が家まで届くのは金属の鋭い音だけであった。

ここまで書いてふと記憶が甦ったが掛け声の記憶もある。ランニングなら家の脇の小道まで来ることもあったのか。記憶は曖昧で詳細は分明でない。

彼の地を訪ねた人ならばあそこはキリスト教が支配しているという表現も一笑に付すことはあるまい。駅の近くのカトリック教会は修道院も兼ねているのか巨大で十字を冠する鐘楼からは折に触れて高らかな響きが辺りを満たしていた。キリスト教は少なくとも鐘の音では仏教に勝っているというのが私の持論である。

道を歩いていた。何の変哲もない公園脇の道である。声がした。子供、それも外国人であるのは断片的に聞き取れる会話の意味が解しかねることからも判った。振り返るとドイツ人だろうか、ゲルマン民族らしい金髪碧眼の少年二人が角を曲がって行った。流石は田園調布、外国人も白人ばかりかと妙に納得して家路についた。

道を歩いていた。何の変哲もない公園脇の例の道である。声がした。子供、聞き取れる会話は英語である。さては英米人かと振り返るとなんと黒髪のアジア系、世にも珍しい(?)シンガポールの人か何かかと思って思わず目を凝らすと彼ら、どちらも日本人である。日本人が!日本の!それも東京で!英語をペラペラ捲し立てる!いやはや大した街だと半ば呆れ、半ば感心する始末であった。

東京点描

東京点描

東京を去るというのなら思い出を文字に起こすのもまた一興であろう。いくつか綴ってみようと思う。

ケバブ

東京に越してきて最初に住んだ社宅のあった豊島区某所には外国人が多かった。流石は東京、グローバル化でありますかなどと感嘆していたのも束の間、すぐに慣れた。どうやら肌の浅黒い西~東南アジア系が多いようである。
まもなく引っ越して来て一年ほどのある日、近くにケバブ屋が出来た。店主はトルコ人っぽい、トルコ人である、いやトルコ人であるべきだろう。それまで国籍不詳であった数多の外国人の中で一人彼を国名で以て特殊化したわけである。
真新しい店内の壁沿いに料理場があり、ガラス張りの店先に肉が吊るされている。この手の料理屋は総じて小汚ないからシミひとつないこの店からは奇異な印象を受けた。
しかし開店の日こそ親族であろうか、同じような顔をした一団が屯っていたこの店はその後は閑古鳥が鳴いている。かくいう私もついにいかなかったのであるが。母としばしば我々が社宅を出て新居に向かうのが先か店が潰れるのが先かなどと言っていたがついに我々が去るまで店の様子に変わりはなかった。
それ以来あの店の辿った運命は知らない。まだやっているのだろうか、繁盛しているのか、相変わらず暇をもて余しているのか、はたまた諦めて店を畳んでしまったのか。
私にそれをあえて知ろうとする意志はない。私の記憶の中のあの店主はいつも店先の肉とともに退屈している。